1年前のこと (2001/09/09~2018/10/31)

 10歳?のとき親が再婚し、新しく来た人が妊娠したんだけど、もともと俺はその人との再婚に反対していたこともあってすぐに仲が悪くなっていった。
その時には既に人生は生きるに値しないと思っていたし、大人のよく言う生きていればいいこともある、などという言葉に説得力はずっと無かった。
苦しみを感じている当事者にとって、よろこびと苦しみがつりあわないことが問題なのではない。苦しみが"ある"こと自体が問題なのである。そもそも生きることのよろこびと苦痛は相殺しあうものではない、同じ秤にかけることのできないものだ。
苦痛は大小問わず、たとえどんなに生きるよろこびを感じていたとしても自殺を選択する理由になりうる。
 「生きていなければその喜びを感じることはなかった」、「生きていなければその苦しみを感じることはなかった」 の選択の話や、その選択の非対称性についてはよく語られている。

 

  もう俺は生きることすべてに、息を吸って吐くことにさえうんざりしていた。(肉体を持つことは最上の存在のよろこびであるはずだったが、そのよろこびは次第に霞んでいってしまった。)
あらゆることが俺を苦しめるし、そうである以上俺も誰かを苦しめることを避けられない。俺は生きることが怖いし、俺が生まれてこないほうがよかったのと同じように、生まれてくるその妹も俺みたいに苦しむくらいなら生まれてこないほうがよかったはずだ。子供は子供の意志で生まれてくるわけではないからなおさらである。
 俺は大人になどなりたくない、俺はもう苦しいから、そして誰かを苦しめないために、死にたいし、死んだほうがよいし、死ななければならない。

 

 大人は無自覚である。彼らは俺含むこの世界の誰かの苦しみの元凶であることに無自覚で、生きていればいいことがあると自分に言い聞かせすべてをごまかして生き続け、挙句その子を生み世界の苦しみを増幅し続けている。

 

 彼らはそれを指摘されるのを嫌う。
「大人って生きることっていう間違いを認めることができなくなって自殺できなかった死に損ないどもなんだ 早く自殺して勝ち誇りたい
大人の方がより多くの業を重ねているのに俺をそんな目で見ないでくれ。」

 

 そういうわけで、小学校中学校と、「人生どうでもいい、死にたい」と思ったときには親や教師に殴りかかりに行った。
俺は悪い大人を片っ端から殺していくよりも自殺するほうを選ぼうとしたけど、全然気がすすまないから焦っていた。
(小6の冬から親と離れて暮らし始め、早く死ななければならないと考えていた一方で心の辛さがなくなってしまい後ろ向きなことを考えることができなくなってしまった、
悪いほうにいくことで自殺できるのではないかという雑すぎることしか考えられなかった)
 殴る時、嫌いなやつに八つ当たりをする感覚だった。これは感情をぶちまけたものでしかないし、ストレス解消に殴っていたようなものだから結構反省した。
殴りながら泣いて絶叫していたりして情けなかった。

 

 一年前の10/31はもっと意志があったように思う。前日に処方された薬でラリっていた俺は明らかに神経が過敏になっていて、
誰かに見られること、誰かを見ること、誰かの声が聞こえてくること、学校にいれば避けられないそういったすべてに耐えられなかったからイヤホンをしていた。
 この日の一番の過ちはそのような状態で登校してしまったことだと後となっては思うし、あとはひたすら運が悪かった。
 イヤホンをしていたところを教師に注意されてしまった。今までそんなことを注意されたことはなかったし、
最初は聞こえなかったので気づかなかったんだけど腕を掴まれたので驚いた
俺に話しかけないでほしかった、顔を見ると知らない先生だった 知らない人に話しかけてこないでほしい 知らない人の腕を掴まないでほしい
知らない先生だったが、体育の教師をしてて偉そうで見下した感じのなんとなくムカつく顔をしているというのは見たことがあったし、
声が大きい感じも、知らない他者の腕を掴む"無自覚"な感じも、俺に殴られるなんて1mmも考えてなさそうな感じがしたから、
教師と生徒という学校の中での関係以前に我々が持つ暴力で相手をどうにでもできるってこと、誰かに触れること、もっと言えばお前が存在すること自体が他者を傷つけうることを俺がお前を殴ることで教えてやろうと思って顔を殴った。
めっちゃびっくりしてたしちょっとキレてたのでウケた もうこいつがクソにしか見えなかった 無自覚と尊大さと醜さが露呈している
その後生徒指導室でいつもお世話になってる生徒指導の教師に何をやったのかわかっているのかと言われたのでこいつの首を絞めた。
それをいかつく尋ねてくる感じから説明してもわかってはもらえないだろうなっていうのはわかったし

俺はこういう質問が本当に嫌いだったから どういうつもり?とか何したかわかってるの?とか今何時だと思ってるの?とか いや悪いのは俺なんですけど、
それって自分の不機嫌を示して相手を制圧するための質問じゃん 答えなんて聞いてないんでしょ 追い詰めて自分が優位に立とうとする魂胆が気に入らない 醜い

 

 で、学校を退学になった

 

 大人嫌いは今もどうにもなってないし、大人を殴ることがやめられなかった 当然殴って何かが伝わるわけがないし、キレてるあの教師を思い出すと少しむなしくなるけど
俺だってどこまでも他人のことを想定しない人間で、それも自己中心的な人間の種類のひとつだと思う
俺が他者を想定しなくなったのは、もともとは死んでしまえば他人のことなんてどうでも良いって考えからだと思う
いろんな人に自殺したら悲しいと言われてきたけど、俺が死んだ後も世界が続いていくという実感覚はない(俺の意識と一緒に俺のいた世界もふっと消えると思う)

 

 ちなみに、高校の入試を受けるのにすごくためらいがあった。
俺は入試を受ける自分に納得するために一度自殺を試みている実際に入試の前日に自殺を試みたけど怖かったのでできなかったからという話である。
バカなので俺はこれを入学時に提出する400字原稿に書いたのだが教師たちには読んでいただけたのだろうか。


 繰り返すようだけど俺にとっては生きることは悪で死ぬことは善である
友達が最近の楽しかった話、嬉しかった話、幸せなことを聞かせてくれるたびに、母と一緒にいたときのことを考える
俺は5歳までお母さんがいて幸せだったけど、それが離婚と再婚によって失われてしまった
そして、俺は小6のときに親と離れることで苦しみから解放されたが、俺は死ぬことを指向してもはや幸せを受け止めることができなくなっていた
俺の幸せは母と一緒にいたときにあったようなもので、幸福は子供の俺にのみ許されたものであった

 

 


俺はもう考えることが苦手になっていて、これも小学生中学生の時に考えたことを書き残したもので、きっと今の俺を12歳の俺が見たらぶち切れるだろうし、せめて残さなければと思って書いたもので
別に自分のやったことを正当化するわけにこれを書いたわけではない 自分のやっていることに割と素で引いている でも同じくらい俺には何が正しいのかわからん

でさあ 俺の書いたことってベネターとかショーペンハウアーとか仏教がもう言い尽くしてることで
自分の考えることってだいたい先に誰かが言ってる なんか悔しいよね
現代思想の反出生主義特集ぱらぱらっと読んだけどこれと似たようなことが細かく書かれているし、なんなら倫理の教科書にも似たようなことが書かれているよ

疲れた